雑感


目次

2004/01/31 青色発光ダイオード訴訟
2002/09/18 小泉首相の訪朝の成果
2002/09/11 同時テロから1年
2002/05/01 映画「スペシャリスト」

 現在の雑感
2000年の雑感1999年の雑感



2004/01/31 青色発光ダイオード訴訟

 青色発光ダイオードの発明者である、中村修二教授が、当時勤めていた日亜化学工業を相手にした訴訟において、東京地裁は、発明の対価を604億円と認定し、請求どおり、日亜化学工業に対し200億円の支払いを命じた。

 ちょっとだけ、書いておこう。一昨年の中間判決により、特許権は会社に帰属する(職務発明の予約承継)ことが、確認されている。発明の対価については、

特許法第35条(職務発明)
3 従業者等は、契約、勤務規則その他の定により、職務発明について使用者等に特許を受ける権利若しくは特許権を承継させ、又は使用者等のため専用実施権を設定したときは、相当の対価の支払を受ける権利を有する。
4 前項の対価の額は、その発明により使用者等が受けるべき利益の額及びその発明がされるについて使用者等が貢献した程度を考慮して定めなければならない。

とある。3項は、特許を受ける権利を発明者である従業員から譲渡されるので、その対価を支払うのは、当然のことである。また、4項からすれば、中村教授が会社から得た発明の対価(報奨金)2万円は、会社の得る利益の額からすれば、不当に安い。また、排他的独占権である特許権は、非常に強い権利であるので、その対価も当然高いはずである。(註:特許権と著作権の違い)

 今回の判決に対しては、高すぎるという声も多くあるようだが、私は妥当であると考える。それは、裁判所の認定を元に考えると、セールスマンで会社に16年間で1兆2086億円の売上をもたらし、少なく見積もっても、会社に利益を2416億円(予測される今回の特許料収入相当額*2(自社で製作分は特許料を支払わなくて良いので見えない利益としてその分を増額))をもたらすスーパーセールスマンがいるとする。この人の収入は、いくらであろう。仮に利益の1%(完全歩合制)という契約であれば、16年で24億円である。よくある訪問販売系(ネズミ講まがい)では、売上の10%以上という契約(アム○ェイで、1兆2086億円売り上げたら、いくら儲かるのだろう)であると考えられるので、少なく見積もって1208億円である。しかし、中村教授は2万円。これを不当といわないのは、何故だ。特許権が非常に強い権利であり、青色発光ダイオードのおかげで、名前が売れて信用も高まった会社としては、その対価としての200億円は、ちょっと高い気はするが、不当には高くないと思う。

 こうした、職務発明の対価は、経営者側からすれば高額であるとして、特許法を改正したり、対価の基準を設けて、高騰を抑えようとする動きがある。しかし、これを抑えようとすれば、優秀な人間は外国企業もしくは、国内の外資系企業に流れるであろう。日本企業は、日本人によって発明された特許料を、外国の企業に払う羽目になるであろう。技術がほしけりゃ金を出すのは当たり前である。これに、多くの企業は気付くべきである。

註:著作権と特許権の違い
 著作権は、もともと文学や芸術作品の創作者を保護することを目的としていた。このことは、著作権が創作した瞬間に発生するという点、また、著作権の一部である著作者人格権が基本的人権であるという点からも、よくわかる。確かに排他的独占権を持つので財産権でもあるが、個人の創作活動を保護するという人権でもあるのが、著作権である。ちなみに、著作権は、創作活動を保護するものであるから、全く別個に創作された他方に対して、権利は及ばない。全く別個に同じものが創作された場合、どちらも著作権を持つ。
 特許権は、発明者が創作した技術を公開することの代償として、一定期間その技術を独占させるというものである。これは、技術の公開により産業を発展させるということ、発明者に技術を独占させることにより研究開発をより活発に行わせることができるからである。特許権は、そういった産業政策的な面が強いので、確かに発明者を保護するという観点からは人権的なものもあるといえるが、基本的には技術に関する排他的独占権を持つ財産権である。また、全く別個に発明したものがある場合、特許権は先に出願した方のみが特許権を持つ。全く別個に発明した他方にも、特許権は及ぶ。特許権は発明の公開(特許は公開される)の対価であるので、後に公開したものにまで排他的独占権を与える必要はないのである。但し、出願前に自分で行っていたことは、継続してすることができる。
 著作権と、特許権の違いは、実は大きい。

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2002/09/18 小泉首相の訪朝の成果

 今回の訪朝で北朝鮮を交渉のテーブルにつかせ、まともに交渉できる相手であるということを、世界が確認したという点は、とても大きな成果であるといえる。
 今までの北朝鮮との交渉を、他国も含めて見ていると、北朝鮮の主張がとおり、北朝鮮と交渉する国の主張は、それほど通らずに終わったような気がする。つまり、北朝鮮にいいように振りまわされて終わりというわけだ。しかし、今回の訪朝では、北朝鮮は拉致や不信船について事実を認め、正式に謝罪した。今回、彼らは国際社会のルールに従い、過ちを認め、日本と真面目に交渉する気になったことを示した。これは、他の国に対しても、同じように交渉できるということを示したともいえよう。
 今回の訪朝を私が評価する点は、まさにこの点である。

 日本の安全補償を考えたときに、近隣諸国で一番不穏当な国(テロ支援国家)は、北朝鮮である。その国に対して、どのような行動をとればよいかを考えてみる。
 まず、テロ支援国家は、国際社会にとって害をなすから、早急に政権を打倒し、民主主義政府を打ち立てるべきであるという考え方がある。今のアメリカがイラクに対してやろうとしていることであるが、武力をもって争いを解決するのは下の下であるし、日本は武力行使を放棄しているので、このようなことはできない。また、平和を望むのであれば、武力による解決は抜かずの宝刀としておくべきであろう。
 次に、テロ支援国家からの屈辱的な要求に耐え、日本の安全のみを守るという考えがある。これについては、国際社会全体の安全と平和がもたらせないし、要求がエスカレートする可能性が高い。また、屈辱的な要求に耐えていたとしても、日本だけが安全であるという保証はどこにもない。そればかりか、いつの日か、アメリカとテロ支援国家のどちらの味方かを鮮明にすることを迫られ、最悪の結果をもたらすであろう。また、国際社会においても、日本は金だけ出して口は出すなという風潮が広がっていくであろうから、日本が世界全体のためになる提案をしたとしても、無視される可能性が大きい。また、もしいつの日か日本が困窮したときに、他の国から助けを得られないであろう。やはり、金だけでなく、他の国と同じように人も知恵も命も出し合わないと、他の国からの信頼は得られないと思う。
 第3の道は、テロ支援国家をなんとかして、交渉のテーブルにつかせ、お互いに対話を重ねることにより、その危険性を減らし、相手国に対する無知と不寛容をお互いに減らしていくことである。この道は、他の道よりも複雑で険しい。しかし、戦争をおこさずに、国際社会における危険性を減らせる唯一の道である。世界に相手が対話の可能な相手であるということを知らしめること、その中で危険性を削いでいくこと、これこそが平和のうちに将来の紛争の芽を摘むことのできる唯一の方法ではなかろうか。
 もちろん、私は第3の道を強く支持する。

 今回の訪朝では、小泉首相の訪朝は、北朝鮮という国を、形式的ではなく実質的に交渉のテーブルにつかせたという点がまず意味がある。それだけでなく、国際社会のルールに沿って、話が通じる相手であるということを、日本の筋の通った要求を北朝鮮が受け入れることによって示した。このことにより、無用な武力行使は回避されるだろうし、人命の浪費もなされないのであろう。
 今後、北朝鮮という国を国際社会のテーブルから離さずに、対話を続けていくことができれば、世界は不安定であるが平和でありつづけられるだろうし、北朝鮮の体制も徐々に変化していくことだろう。そのことは、国際社会の安定をもたらすだけでなく、北朝鮮の国民にとっても食糧援助等によって福音となるであろう。

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2000/09/11 同時テロから1年

 昨年の今日、アメリカで同時テロが起きた。2機のジェット機が相次いで世界貿易センタービルに突入して、瓦礫の山に変えた。そして、ペンタゴンにもジェット機は突入した。
 1年が経ち、あのときを振り返ると、ペンタゴンへのジェット機の突入だけで、社会が一丸となって反テロに立ち上がったかどうかは、かなり疑問だ。テロの対象が軍の施設である以上、ある程度の正当性は成り立つように思える(といっても、そもそも戦争に正当性があるかは疑問だが)。しかし、現実には世界貿易センタービルという民間のビルにもジェット機は突入した。そして、多くの民間人が殺された。
 無抵抗の民間人に対する無差別な攻撃に対して、多くの人たちは自分たちへの攻撃というふうに思ったのではないのだろうか。簡単に言えば次は自分だという脅迫を受けたように感じたのではなかろうか。そしてそれは、テロに対する恐怖、そして、テロに対する憎悪に変わっていったようにも見える。

 あれから1年が経ち、アメリカを中心とする国々の対テロを口実にする攻撃は、とりあえず休息しているように見える。そして最初の熱狂が過ぎ去って、落ち着きをとりもどしてくると、昨年のテロというものが、民主主義に対するテロではなくて、アメリカという国に対するテロであるということが見えてくる。
 もちろん、現代においてテロという行為を容認してはならないのだが、それを根拠にしてアメリカという国がしたことが無条件に正しいという考えは成り立たない。テロの首謀者やテロ組織に対する攻撃は、安全な社会を維持するために、やむを得ないという論理もわかる。しかし、その目的達成のために誤って攻撃を受けた人たちへの補償はどうなっているのだろうか。彼らはしっかりと、その補償を行っているのであろうか。

 それはさておき、テロを無くすためには、すべての人々が豊かになればよいのである。できることなら我々先進国の人たちと同じ程度に豊かになればよいのである。そして、お互いに経済的に強く依存すればよいのである。そうすれば、相手との立場の違いがあったとしても、現実可能な解決をしていこうという気になるのだと思う。

 しかし、一見理想的に見える上記の解決法には、重大な欠点が隠されている。それは、地球上のすべての人が先進国の人たちと同じような生活をするための、食料も、エネルギーも、自然の自浄能力も不足しているという点である。
 おおざっぱではあるが、仮に先進国の人たちが減らせる消費が50%として、それを他の人たちに分配したら、どれだけのことが可能になるか考えてみる。
 仮に、貧しい人から順にわれわれと同じような生活ができるようにしたとすると、今の先進国の人口の約1.5倍の人が、そんな生活が出来る。でも、全人口の約50%にあたる人たちは今のまま。
 減らした分の消費を均等に分配したとすると、先進国以外の人たちは、今のわれわれの約20%、分配後の先進国の人たちの約40%の消費ができる。これくらいの格差であれば、もしかしたらテロがなくなる程度には、貧富の差がなくなっているといえるのかもしれない。

 それでは、この消費50%削減が可能かを考えてみる。もちろん不可能である。
 確かに、自分たちの消費を50%に抑えられる人もいるかもしれない。でも、多くの人には無理であるように見える。簡単に言えば、給料の手取りの半分を、先進国以外の人のために供出しなくてはならないし、食費も半分にしなくてはならない。産業で使うエネルギーも半分にするから、雇用も減って、町は失業者で溢れそうだ。今でさえ不足している、弱者への行政サービスは、社会が支えきれなくなるので、廃止または縮小されるだろう。今の現状でも、GDPがバブルの時(平成2年度)より、平成12年度で、4,505,320億円〜5,130,060億円に増加している。その実感はまったくないのだけどね。これが、半分になるとすれば、想像の範囲を越えている。仮に、10%削減でも、どうなるかは想像の範囲を越える。(単純に考えれば、給料の手取りが10%減るか、10%の人が新たに失業者になるかとなる)

 それでも、どこかに現実可能な解決があるかもしれない。上記の話は、おおざっぱな統計上の話にすぎない。細かいところをうまいことやりくりしていけば、なんとかなるのかもしれない。
 99%不可能だとしても、とりあえず、それを探しつづけなくてはならないのだろう。それは別として、当分の間はテロの恐怖と適当な距離を置きながら、付き合っていかなくてはならないのかもしれない。これはある種、核戦争の恐怖と適当な距離を置きながら付き合わなくてはならないのと同じような状態であるのかもしれない。

 とりあえず、身の回りの人たち、見える範囲の人たちを幸せにするために、お金を使えば、ほかの貧しい国から恨まれて、テロの標的。見えない範囲の人たちまでも幸せにしようとすれば、今の生活をキッパリ捨てて、数十年前の生活水準に戻らなければならない。
 どちらがマシかという問いは、不名誉な二者択一である。でも、この不名誉な二者択一以外の答えがどこかに落ちていることを信じたい。

 個人的には、技術革新をさらに積極的に進めて、大幅な省エネルギー化、食料生産の効率化をすすめるしかないと思う。それらを進める中で、安全性は多少犠牲にしても、多くの人が救われるなら仕方がないと思う。(といっても、ある程度の安全性は保障されなくてはならないのは、当たり前のことである。)
 そして、積極的に省エネルギー技術、食料生産技術を発展途上国に積極的に移転して、少ない資源を効率的に使用していけば、なんとかなるのではないかと思う。それだけではなく、現在発展途上国である国の人々が、現在先進国である国の人々を相手に、しっかりと正当な値段で、よいモノを売れるようにする。そのための技術移転と人材育成をすること。それにより、人的にも経済的にも交流を深めて、世界の国々すべてを不可分のものにする。そうすれば、戦争をしかけようという国はなくなるだろう。そして、それが実現されていくにつれ、テロというものも、より小規模でより支持をえられないものに、変質していくことだろう。

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2002/05/01 映画「A2」

 先日(2002/04/27)、「A2」という映画を見た。以前に見た「A」の続編だ。  はじめに「A」の方から説明すると、森達也監督が実際に、オウム真理教(当時)の中に入って撮影した映画だ。ちょうど、幹部たちが続々と逮捕されて いった頃とその後くらいの時期であったような記憶がある。意外にも、教団の中の人たちは、宗教的な部分をのぞいては、淡々と普通に日常を送っていたのが印象的であった。
 その森監督は、「A」を撮影した後、続編を撮る気は全くないといっていたのに、続編を作ったので、なんだか気になって見に行ってみました。

 会場のシネヌーヴォの壁には、「A2」が紹介された様々な記事が貼ってあった。なかでも、一番興味深かったのは、「TV局や新聞社が、オウムの中で撮影できなかったのは、撮影させてくださいという、当たり前のことをいわなかったからだ。最初に、断られるものだという先入観があるのだろうね。実際、頼んだら自由に撮影させてくれたわけですし。」というような意味合いの発言だ。

 映画では、淡々としたオウムの中での信者の姿がうつしだされている。宗教的な修行以外のシーンに映る彼らの姿は、あまりわれわれと、かけはなれていないようにも見える。やはり、人間は人間ということなのだろうか。
 近所の人(もちろんオウムに反対している)たちと、仲良く近所づきあいしているシーンもある。我々と同じように、普通にご近所づきあいしている。最後の方では、オウムの信者からもらったもらった食べ物(カレーだったかな)を、食べたりもしているというような会話もでてくる。近所の方は「そういう意味では信用しているから」というようなことを言っている。
 もっとも、多くの場合は、御近所さんとは、ただ単に敵対して終わりになるのだけれど。

 もしかしたら、面と向かって、個人対個人でコミュニケーションをとれさえすれば、多少の行き違いや、相手に対する無理解はあったとしても、完全な破局にはいたらずに、なんとかなるのではないのだろうか。文化の違いは、表面的には大きくても、いったんコミュニケーションが成立しさえすれば、なんとでもなるのではないのではないか。そんな、一縷の希望を見せてくれた映画であった。

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